電話、先に切りますか?
慣習は、変わるべきものだと思う。
言葉が変わるものであるのと同じく。
電話が、公衆電話のような受話器のあるものから、
スマートフォンのようなボタンに変わったことで、
慣習は変わったのかも知れない。
電話を先に切られるのだ。
一つ前の慣習では、電話は先にかけた人が、先に電話を切っていた。
それが常識とされていた。
常識とは、慣習の別名である。
また、考えなくても済むように作られたもの。
かかってきた電話は、先に切らないもの。
これは、意味を考えるものではなくて、
常識に押し込められたもの。
この常識に隠された意味はなんだろうか。
それは、相手を大事に思っているという遠回しの表現だったかも知れない。
あなたが電話を切るまでの時間、私は待ちます。
その時間を惜しみません。
名残惜しさを表現している時間かも知れない。
片想いの相手への電話。
話が終わって、その直後に電話を切るだろうか。
相手が切るまで待たないまでも、少し時間を置かないだろうか。
電話かけた方が、先に切る問題。
その背後には、相手への想いがある。
この慣習を知らない人は、そのように行動できないかも知れない。
教わらないとなかなかできないかも知れない。
これは学校で教わることではない。
家庭で教わることのように思う。
私は、母親に教わった。
その後、漫画で学んだ。
家庭で慣習を教えなくなったということもありうる。
あらゆることが解体されていることの影響か。
カルピスの解体。ペットボトルの誕生。
「電話機は一家に一台」から、「スマホは一人一台」になった。
かつては、家庭内で電話は一つの電話機で行われていた。
電話がなれば、聞き耳を立てていた。
会話が終わってる様子なのに、受話器を下げない。
そのことに違和感を覚えるのは自然なことだった。
誰もいなければ、家を代表して自分が電話に出る責任があった。
今は、スマホ。
他の人がスマホで電話している時、あまり聞き耳を立てることはない。
スマホは一人一台だから、私とは切り離されている。
ゆえに、スマホに意識をむける必要はない。
いろんな慣習が更新されていくことを悲観することはない。
しかし、その失われる慣習の背景にどんな感情があるのかを探ることは、楽しい。
これだから若いものは・・・。というのは数千年前から言われてきたようだ。
慣習は変わる。これは大前提。慣習の変化に適応できないと不満が燻る。
我々は、慣習を変えねばならない。
次代へパスしなくてはならない。
相手より電話を先に切ることのいい点は、時間を無駄にしないことである。
相手の時間も自分の時間も。
待つ時間は何も生産してはいない。
とりあえず貨幣価値としては何も。
信頼価値、信用価値は生産するにせよ、お金にはならない。
貨幣価値を生産するかという価値基準からすれば、合理的だ。
今の我々の世界は、貨幣価値が支配的な社会だ。
こんなことを言いながらも、
やっぱり少し寂しい思いもあります。
私は、先に切られても気にしないけれど、
先に切らない習慣を続ける。
それが自分にとって、幸せだと信じて。