think-positiveのブログ

ポシティブな面を見て生きる。

シンデレラとスーパーの肉

 

シンデレラの元となったのは、

グリム童話の「灰かぶり」というお話。

 

グリム童話は、ドイツの民間のお話をグリム兄弟が編集したもの。

これを元にした、ディズニーアニメのシンデレラは結構な人が見ていると思う。

 

さて、私は大学生の時に童話に興味を持っていた時期があった。

その時に、グリム童話を手にした。

 

まず有名どころから読んだ。

シンデレラの原題が「灰かぶり」であることが意外だった。

灰かぶるシーンあったかなと。

たった17ページなので再読してみた。

 

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あらすじ

母が亡くなる。

遺言は、気立よく生きること。神さまを大事にすること。

 

父が再婚。

継母と子(姉と妹)とともに生活が始まる。

 

継母、姉、妹は気立が良くない。

外見は白いが、内面は黒い。

 

灰の中に豆をばら撒かれ、豆を回収させるといういじめ。

姉、妹は服を買ってもらえるが、自分は買ってもらえない。

家事を押し付けられる。

 

こんないじめの末、いつも汚い服で、灰をかぶっていることから、

近所で「灰かぶり」と呼ばれる。

 

ある日、王子の花嫁探しの催しが開かれる。

姉と妹は参加できるが、灰かぶりは参加を継母に拒否される。

食い下がる灰かぶり。

 

継母は、参加を諦めさせるために無理難題をふっかける。

灰の中に大皿いっぱいの豆をばら撒き、2時間以内に取り出せたら参加を認める。

 

灰かぶりは、近所の鳥や鳩に協力を得て、1時間で成し遂げる。

 

これを2回繰り返したのち、またも参加は拒否される。

 

実母の墓で、木に服と靴を落としてくれるようにお願いをする。

すると鳥たちが、どこからか素晴らしい服と靴を落としてくれた。

 

王子の会に参加して、王子に見染められる。

二人はダンスをずっと踊る。

灰かぶりは、素性がわからないように、逃げるように会を後にする。

この件は3回繰り返される。

 

その3回目に、王子は階段をベトベトにしておいて、

靴をおいて行かせることに成功。

 

後日、この靴を手がかりに灰かぶりを探す。

 

王子が灰かぶりの家に着くと、

 

まず姉が部屋で靴を履いてみるが、靴が小さい。

母は、花嫁になれば歩くことも必要ないから、

つま先をノコギリで切るように言う。

 

靴がピッタリということで馬に乗って城へ向かう最中、

鳥たちが歌って王子に教える。

靴から血が滴っていると。

灰かぶりとは別人だ。

 

妹は、かかとを切って、

同じく鳥によって別人判定。

 

王子がまだ女の子がいるはずだというと、

両親は否定。

王子が食い下がると、灰かぶりを目の前に連れてくる。

 

その場で靴を履くとピッタリ。

鳥の判定もOK。

 

めでたく結婚することになりました。

 

教会に向かう途中で、姉妹はおべっかを使い、灰かぶりから、

おこぼれをもらう卑しい心で左右に陣取っていた。

 

すると鳥たちが姉妹の片目をつつき、目をえぐり取りました。

 

式が終わり、教会を出ると、また鳥たちが姉妹のもう片方の目を

えぐり取りました。

 

そんなわけで、意地悪な姉妹は両目を失い、

盲目の人生を余儀なくされました。

 

おしまい

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気立よく、神様を大事にした灰かぶりは、

鳥や木などの助けがあって、王子と幸せな人生を送りました。

 

一方の意地悪な心の汚い姉妹は、

王子を騙そうと、足をノコギリで切断し、

両目を失うという、惨めな結果となりました。

 

この心の良し悪しによって、

信賞必罰的な結果を招来する系の物語は王道と思います。

 

しかしながら、特筆すべきはその罰の生々しさ、グロテスクさです。

それは、かなり淡々と語られるので違和感もありますが。

 

現代の感覚からすると、童話においては、

グロテスクなところを、隠さなければばらないと思ってしまう。

 

これは現代の日本に特異な傾向かもしれませんが、

あまりに生々しいものは避けるし、グロテスクなものは、

子供にとってあまりよくないと思われがちです。

 

しかし、本当にそうなのか。

今自分の持っている価値観は普遍的と言えるのか。

一時代の一地域に特有の価値観かもしれない。

 

なぜならば、グリム童話は編集されてから200年経っており、

お話自体はもっと古くから伝承されている。

つまりは、時代を超えて受け入れられてきたお話だということです。

 

200年受け入れられてきたという事実と現代日本の感覚と、

どちらが普遍的でしょうか。

 

 

前者が事実として普遍性があると思います。

 

時代が進むにつれ、進化するものと、進化しないものがあると思います。

科学や知識は進化するけれども、人はなかなか進化しにくいのではないか。

生物としての身体としての人、あるいは徳性のようなものも。

 

例えば、人間的な内面の充実など数値化できないので、さらに測りづらいけれど、

むしろ退化しているかもしれません。

 

ここで一つの問い。「グロテスクは隠すべきか。」

 

我々はグロいものから切り離されている。

そして生命とも。

 

我々は、生命を口にしている。

 

しかしながら、それは普段あまり意識されない。

それは、分業の賜物だ。

 

鶏肉業者は、鳥の皮を剥いで、肉をそぐ。

豚も、牛も。

 

我々一般消費者は、生命であった痕跡を綺麗に除かれ、パッケージされた、

一部分を目にする。

 

人間と構造が近しい動物は、解体ショーにはならない。

マグロの解体ショーはあるけれど。

 

現代人は、かなり生命から距離をおいている。

食べ物に対して、生命を頂くという祈りをするよりも、

生命の痕跡を消して、単なるモノとした方が都合がいいからか。

 

 

生命のモノ化は、経済的なスピード感をもたらす。

お金の流れをより高速にすることが、経済の肝であるから、

グロテスクを隠すことは、「経済的」にいい。

 

経済的にいいことは、人類にとっていいことに直結するか。

これはわからない。

 

経済的に富めば富むほど、幸福になるわけではないことは立証されている。

人類にとって、グロテスクを隠すことは、スーパーの肉は、

退化かもしれない。

 

灰かぶり的なグロテスクは、物語が伝承されるために必要な部分であったかもしれない。

そしてそのグロテスクの中にこそ、教訓が含まれているとしたら、、、、。

 

灰かぶりの締めくくりは、姉妹の目がくり抜かれて不幸になるシーンだ。

 

幸せになる道と同時に、不幸になる道も示されている。

グロテスクを消すことは、不幸の道への警戒が弱められる。

 

気立よく生きることは、周りの人とうまくやっていくために必要なことだ。

自分のためだけに生きようとすると、周りに迷惑がかかる。

よって罰がある。

 

普段から自分のことではなく、他人のことを考えて生きられる人は、

何らかの幸福がもたらされる。

普段から、他人から搾取するような人は、報いを受ける。

 

この物語の大きな特徴は、その罰が描かれるところである。

しかしながら、翻訳の段階でそれが削られることは、読み手にとっては不幸かもしれない。

 

過度な「安全」は決して安全をもたらさない。

グロテスクさは、多少の危険を犯す。

 

全員が同じ方向を向くのは危険だ。

一つのカゴで卵をいっぺんに運ぶことはリスクがある。

 

グロテスクさには、意味がある。