think-positiveのブログ

ポシティブな面を見て生きる。

オーケストラと生命と神と

 

オーケストラを聴きに行って来た。

東京芸術劇場

 

ベートーヴェン第九番。

 

オーケストラを聴きに行こうと思っても、

行動には移さないのが常だ。

 

しかし、今回は妻と行って来た。

 

当然だけど、

Apple Musicにはない音の美しさ、立体感、

押し寄せるような迫力があった。

 

まさにこの瞬間にしかありえない、

一回限りの音楽があった。

 

そういった意識で聴いていると、

とても集中して身体がこわばっている自分がいた。少し酸素が足りなくも感じた。

 

妻も聴き終わった後に、

脚が筋肉痛になったといっていた。

 

音楽とは祭で、祝いなのだということを、

あの空間にいると体験できる。

 

ひとつの音楽を200人が演奏して、

2000人が聴く。

 

音楽という生きものが、

会場を周回するような。

 

海辺にいて、

波が押し寄せてくるような。

 

まさに

音とは振動で、

振動とは運動で、

運動とは生命だ。

 

だから、

音は生命を生きものを想起させるのだろう。

 

私はオーケストラに生命を感じ、

あの空間がとてもいい好きだった。

 

 

 

 

ランニング

 

ランニングをしている人が、不可解だった。

 

わざわざ疲れることをなぜするのか。

太っているから、痩せたいのか。

 

飽食して、痩せるために走るとは、

なんともおかしな話だと思っていた。

 

食べる量を減らせばいいのに、と。

 

しかし、今はそれを肯定しようと思う。

 

ランニングは確かにきもちがいい。

走りはじめはきつい。

走っている最中も、まわりを見渡すと、

きつそうだ。

 

でも、そんなにきつくない。

きついはきつい。

でも、きもちのいいきつさだ。

 

そのことに気づいて、

食べ過ぎの調整としてのランニングでも

いいのかもしれないと思い始めた。

 

多くのことは、

経験しなくてはわからないものだ。

小説の意義

 

私は小説を読んでこなかったのかもしれない。

 

家には小説は400冊くらいある。

また、図書館で読んだ本もある。

 

小説を読んだ経験は多い方だと思う。

 

でも、小説を「読んだ」といえるのか。

これが最近、心許なくなってきた。

 

ただ、字を追って、ストーリーを辿っただけ

なのではないかという気がしてきた。

 

また、小説は誇張していると思っていた。

芸術たらしめるために、あえて情景や心情を誇張して表現しているのではないかと思ってきた。

 

しかし、そうではないと考えを改めた。

 

私の生活上の感じ方が、貧しかったのかもしれない。

深く、考えなかっただけかもしれない。

 

生活をたいせつにするようにした。

すると、小説の響き方が変わってきた。

 

年齢とともに、感じ方は変わる。

精神的な年齢も同じか。

 

2歳くらい精神の年齢を重ねた。

 

胃袋と経済。

 

すぐに役に立つ人間にならないように。

そうして生きて、役に立たない人間になったのか。

これは、もっとのちに検証されるべきか。

 

あんまり大きなことを考えると、よくないかもしれないと思う。

 

日本の人口は2100年には6000万人くらいになる。

ピークが1億2000万人とすると、半減する。

これが2020年頃の内閣府の予測。

 

80年後のことを、今日考えるべきではない。

そうだろう。

 

明日やるべきことは、明日やればいい。

 

80年後の人口を、今考えてなんの役に立つのか。

 

右肩上がりの経済を前提とした経済が終わる。

 

そのことを人口の減少予測は言っているのかもしれない。

 

「人口が右肩上がりで、経済も右肩上がり」

「人口が右肩下がりで、経済も右肩下がり」

 

これが、自然なことのように思う。

 

人口を増やすか。

人口が減ってもいいようにするか。

人口が減っても、右肩上がりを目指すか。

 

我々の目前の「仕事」は、大きな物語の上にある。

 

確かに日本の人口は減るけれど、

私の仕事は減らないということには、なかなかいかない。

 

飲食店をやっているとする。

日本の人口が減る。

地域の人口が減る。

お客さんの胃袋の数が減る。

 

お客さんの胃袋を大きくしようと懸命になる。

いくら食べても、満腹にならない食べ物を開発する。

これができたらいいかもしれないけど、

きっとむずかしい。

 

今、日本はどっちにいこう。

 

私は、経済を折り畳む方へいきたい。

より自然な方だと思うから。

 

 

 

 

 

 

壁の建設

 

自分の中に壁を作る。

 

自分の中には、見えない壁があったりする。

「これはできないだろう」という壁だ。

 

それは普段意識していないことかもしれない。

だからこそ、やっかいだ。

 

アリがせっせとエサを運ぶように、

壁は静かに建設されている。無意識下で。

 

我々が壁に気づくのは、壁が出来上がってからではない。

 

何か、壁が障害になる時だ。

 

壁は、普段の浮かんでは消える思考が作る。

だから、思考は大切なのだ。

思考は今も、壁を作っている。

 

あんまりじっくり作らないでよ。

 

 

 

 

まだまだポジティブになれる。

 

ポジティブになることの効用は、甚大だ。

 

ともするとネガティブな思考になることがある。

しかし、それでいいという意味でのポジテイブさがあるといい。

 

ネガティブ思考は何が何でも撲滅しなくてはならないといった主張は、

自然じゃない分、長続きしない。

 

ポジティブでもネガティブでもいいという鷹揚さがあると、

自然体で生きられる。

 

ネガティブな今を意識することは大事だ。

その瞬間がポジティブかネガティブかを判断した上で、

次なる気持ちの移行を図る。

 

ネガティブでいると結果もネガティブになりやすい。

しかし、ネガティブな結果は、次の成功のために必要なものだと考えれば、

それはいいものに変えられる。

 

自分の捉え方次第で、物事は変わる。

捉え方のバリエーションや感受性の幅を養うことは、

人生において有益だと思う。

 

田舎対都市という構図の外

 

田舎をバカにする気持ちというものは、都市を憧れる気持ちと表裏だ。

 

田舎を下げる人ほど都市を持ち上げて考えている。

田舎を持ち上げる人は、都市を下げている。

 

この上下は主観的なものだ。

そもそも、都市の方が田舎よりも優っていることなどないのかもしれない。

これは、私の主観だ。

 

東京に誇りを持つ人は、ニューヨークと比較してどう思うか。

ロンドンと比較してどう思うか。

北京と比較して・・・。

 

比較の先にあまり光明はないように思われる。

 

比較しても意味がないことを悟るだけだと思う。

 

田舎蔑視は、都市の人もするし、田舎の人もする。

 

しかし、そもそも蔑視する根拠などないものに、

ネガティブな側面を探すよりも、

ポジティブな側面に光を当てた方がいい。

 

田舎を必要以上に礼賛するのでもなく、

ほどよくいいところだと感じたい。