think-positiveのブログ

ポシティブな面を見て生きる。

自分の文章とは、他人の文章のこと。

 

文章を書くことは、あまりなかった。

 

小学生の作文以降は、あまり文章を書くことってなかった。

 

まともに文章を書かない日々が8年くらいあった。

 

ここ最近は、アウトプットが流行っている。

自分の中で。

 

だから、この文章が存在している。

 

むかし文章を書くことが苦手だった。

 

小学生の頃、家族で散歩に行き、感想を書くことがあった。

私はどうしても書けなくて泣いた。

悔しさ、情けなさみたいなものだったと思う。

 

大学生の頃、授業終わりにコメントカードを提出し、

次回に教授がコメントの2、3個を読み上げる形式の授業があった。

 

ここで、コメントが読まれることが多くて、嬉しかった。

そのころは、本を読む習慣ができていた。

 

小学生の頃は、本を読まなかった。

大学生の頃は、本を読んだ。

 

これだけの違いかも知れない。

 

自分の中に、大層な何かがあるわけではない。

育った環境や見聞きしたものがあるだけだ。

その中から、何を想い、何を考えるか、何を取り、何を捨てるか。

ただそれだけだ。

 

私の中には、多くの知識や体験がある。

普段は忘れていて、必要な時に思い出せる。

(思い出せない時も多いけれど。)

 

自分は、重層的だ。

 

確固たる自分というものが存在するのだろうか。

カラダはそうかもしれない。

 

あなたの文章というものは、存在するのか。

自分で組み合わせた言葉の連なりを、自分の文章と呼んでいいか。

 

これは、私の文章です。

でも元々は、他人のものです。

 

自分の文章は、他人の文章であるが故に、

他人に読まれることができる。

 

あまりに独創的な文章は、きっと読むことができない。

 

ほどほどの独創性が、いい。

 

自分の中に、複数の他人がいて、それがいつしか自分の中に馴染んでいることがある。

読書で新しい考えを知る。その時点では、まだ他人だ。

そこからその他人と付き合っているうちに、他人とは思えなくなる。

馴染む。

そこで他人は、自分になる。

 

自分は、重曹的だ。

自分の中には、自分と他人のさまざまなグラデーションがある。

自分とは、いつも一緒にいる他人のことなのだろう。

 

自分とは他人のことである。

文章も然り。