新田次郎の「孤高の人」と感受性の壁
※本書の内容にふれます。
登山は、幼少期に家族で何度かしたことがある。
山は気持ちがいい。
そんな山に、貴族的な側面があったことは知らなかった。
確かに山登りにインテリのイメージはあった。
しかし本書のように、社会人に閉ざされていたことは知らなかった。
大正時代は大学進学率3〜5%。
今の大学進学率54%。
お金持ちか、お金持ちの大学生しか山には登れなかったらしい。
そして、チームを組んで山に登った。
「お金がないなら、山に登るな。」と主人公は吐き捨てられる。
そんな社会背景がある中で、主人公の加藤文太郎は、独りで登っていた。
加藤は大学を出ていない社会人だ。
孤高の人というタイトルから、超人的で、人間離れした、感情の乏しい人間の話を想像していた。そして、超人的な記録であるが故に、伝説になっているのだと。
しかし、そうではなかった。
加藤文太郎は、人間臭い。
かなり不器用でコツコツ努力する。
本当は仲間と山に登りたくもなる。
冬山で、久しぶりに人に会えば、嬉しくもなる。
一緒に行動させてほしいと、うずうずする。
加藤文太郎は、不器用ゆえに笑顔を出したつもりが、
冷笑の顔を出してしまう。
それは本人も自覚しているが、変えられない。
仲間になりたいのに、敵を作り出してしまう。
孤高の人は、泥臭く不器用な、生の人間だった。
加藤文太郎は、山の景色に感動する。
かなり感受性が高い。
感受性が高すぎるのかも知れない。
感受性が高すぎて、辛いのかも知れない。
目の光に対する感度が高すぎれば、眩しくて目が開けられない。
心の感度が高すぎれば、まともに相手を見続けるのは困難かも知れない。
加藤文太郎の感受性は、彼を孤高にした。
翻って、
私は、すぐ泣きがちだ。
映画でも小説でも漫画でも。
誰か泣いている人がいると、泣いてしまう。
私は心が弱いのかなと思っていた。
それを隠すために、ポーカーフェイスになったのかも知れない。
よく笑うのは、よく笑う。
しかし、他の感情は涙につながりかねないと意識していたのかも知れない。
無意識下で制御していたのかも知れない。
自分の核の部分に触れるようなことを人に話す時、
なぜか泣きそうになることがある。
なぜかはわからなかった。
以前調べたことがあって、同じ人がいた。
感受性が高すぎるということだった。
おそらく私のことを感受性が高すぎると考えている人は、
身の回りにはいないだろうと思う。
私もそうは思っていなかった。
しかし、私は感受性が高いようだ。
共感しやすい性質のようだ。
鬱になったことはない。
そこそこポジティブな、そこそこ感受性が高い人間なのか。
私は、加藤文太郎に共感する。
その感受性に共感する。
私は、自分のために外壁を作っている。
その外壁には、
よく笑う人のデザインもあれば、
物腰が低いデザインもある。
優しいというデザインもある。
壁を作って、
そこに壁がないということをアピールするデザインを施して、
私は生きている。
それは、ひとつの事実だ。
感受性を「高すぎる状態」から、「高い状態」にもっていく。
そのために、いまここで、感受性を吐露している。
壁から出る努力をしたくなった。