think-positiveのブログ

ポシティブな面を見て生きる。

上野動物園に行ってきました。(ゴリラ)

 

チケット争奪戦に勝利し、行ってきました。

 

チケットは、初回は取れず。

1週間後に再チャレンジして取れました。

 

だいたい皆さんは、複数端末+友人や家族にもやってもらって獲得しているようです。

(twiiter情報)

 

私はiphone1台で挑戦し続けました。

 

さて、ゴリラの魅力に取り憑かれ、ゴリラを見に行きました。

パンダほどではないですが、4人ほど熱心な方がいらっしゃいました。

 

ゴリラの名前も個体識別もできている猛者でした。

 

私は、上野動物園は行ったことがありましたが、

ゴリラは初対面でした。(おそらく)

 

まずは岩の上に佇む子ゴリラがいました。

風がさーっと吹いて、木の葉が右から左に流れていました。

その中で、ゴリラは静かに遠くを見ていました。

 

その後、シルバーバックと言われるボスゴリラが姿を表しました。

あまりにも大きく、威厳を讃え、動きがゆっくりとしていて、

見惚れてしまいました。

 

ゴリラは大人になると、背中がシルバーになるそうです。

シルバーバックと呼ばれます。

 

圧倒的な存在感でした。

 

200kgほどの巨体ですが、なんだかそれ以上に大きい。

これは物理的な大きさということよりも、

精神的な作用かも知れません。

 

人と姿形が似ているので、比較によるのかも知れません。

 

そして、かっこいいです。

 

ゴリラというと、なんとなく人に劣った存在として描かれることが多いように思います。

しかし、あの存在感は人を超越していると思わされます。

 

ゆっくりとした動作に、落ち着いた眼差し、隆々とした体躯。

大物感を感じるし、哲学的でもある。

 

言葉だけではなかなか伝えられませんね。

 

人は食物連鎖の外側にいて、支配しているのではなく、

たまたまなんだと思いました。

 

たまたま人なんだと。

 

我々は、他の生物に対して決して優っていない。

 

人間の欲望を具現化していって、人類が滅ぶのではなく、

地球規模で考えて行動に移すことが肝要だと、

ゴリラを眺めていて思いました。

 

 

 

 

 

 

電話、先に切りますか?

 

慣習は、変わるべきものだと思う。

言葉が変わるものであるのと同じく。

 

電話が、公衆電話のような受話器のあるものから、

スマートフォンのようなボタンに変わったことで、

慣習は変わったのかも知れない。

 

電話を先に切られるのだ。

 

一つ前の慣習では、電話は先にかけた人が、先に電話を切っていた。

それが常識とされていた。

 

常識とは、慣習の別名である。

また、考えなくても済むように作られたもの。

 

かかってきた電話は、先に切らないもの。

これは、意味を考えるものではなくて、

常識に押し込められたもの。

 

この常識に隠された意味はなんだろうか。

 

それは、相手を大事に思っているという遠回しの表現だったかも知れない。

あなたが電話を切るまでの時間、私は待ちます。

その時間を惜しみません。

 

名残惜しさを表現している時間かも知れない。

片想いの相手への電話。

話が終わって、その直後に電話を切るだろうか。

相手が切るまで待たないまでも、少し時間を置かないだろうか。

 

電話かけた方が、先に切る問題。

その背後には、相手への想いがある。

 

この慣習を知らない人は、そのように行動できないかも知れない。

教わらないとなかなかできないかも知れない。

 

これは学校で教わることではない。

家庭で教わることのように思う。

 

私は、母親に教わった。

その後、漫画で学んだ。

 

家庭で慣習を教えなくなったということもありうる。

あらゆることが解体されていることの影響か。

カルピスの解体。ペットボトルの誕生。

 

「電話機は一家に一台」から、「スマホは一人一台」になった。

 

かつては、家庭内で電話は一つの電話機で行われていた。

電話がなれば、聞き耳を立てていた。

会話が終わってる様子なのに、受話器を下げない。

そのことに違和感を覚えるのは自然なことだった。

 

誰もいなければ、家を代表して自分が電話に出る責任があった。

 

今は、スマホ

他の人がスマホで電話している時、あまり聞き耳を立てることはない。

スマホは一人一台だから、私とは切り離されている。

ゆえに、スマホに意識をむける必要はない。

 

いろんな慣習が更新されていくことを悲観することはない。

しかし、その失われる慣習の背景にどんな感情があるのかを探ることは、楽しい。

 

これだから若いものは・・・。というのは数千年前から言われてきたようだ。

慣習は変わる。これは大前提。慣習の変化に適応できないと不満が燻る。

 

我々は、慣習を変えねばならない。

次代へパスしなくてはならない。

 

相手より電話を先に切ることのいい点は、時間を無駄にしないことである。

相手の時間も自分の時間も。

 

待つ時間は何も生産してはいない。

とりあえず貨幣価値としては何も。

信頼価値、信用価値は生産するにせよ、お金にはならない。

 

貨幣価値を生産するかという価値基準からすれば、合理的だ。

今の我々の世界は、貨幣価値が支配的な社会だ。

 

こんなことを言いながらも、

やっぱり少し寂しい思いもあります。

 

私は、先に切られても気にしないけれど、

先に切らない習慣を続ける。

 

それが自分にとって、幸せだと信じて。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

英語勉強スタート

 

英語を勉強することにした。

 

日本のニュースは、

「重要度は低いけれど、視聴率に貢献するもの」を優先的に放送しているように思える。

 

つまり、あまり学ぶことがない。

そして重要でないことが流れている。

内容が薄い。

 

英語のニュースを読めるようになれば、学びが飛躍する。

さまざまな視点を得られると思う。

 

日本にいて、日本のニュースを見ていたら、時間を無駄にする。

楽しいならみてもいいと思いますが、私はみない。

テレビ捨てました。

 

さて8年ぶりくらいの英語で、まぁ忘れています。

やりがいがあって、うれしいです。

 

あまり細かいことに拘らず、習慣化していくことを念頭におく。

その上で、一つひとつレベルアップしていこう。

 

youtubeなどから、英語学習の情報を入手して、

目標設定、逆算して計画、1日の量を決める。

余裕を持たせてスケジューリングして、

毎日進捗を記録する。

 

きっとうまくいく。

 

 

自分の文章とは、他人の文章のこと。

 

文章を書くことは、あまりなかった。

 

小学生の作文以降は、あまり文章を書くことってなかった。

 

まともに文章を書かない日々が8年くらいあった。

 

ここ最近は、アウトプットが流行っている。

自分の中で。

 

だから、この文章が存在している。

 

むかし文章を書くことが苦手だった。

 

小学生の頃、家族で散歩に行き、感想を書くことがあった。

私はどうしても書けなくて泣いた。

悔しさ、情けなさみたいなものだったと思う。

 

大学生の頃、授業終わりにコメントカードを提出し、

次回に教授がコメントの2、3個を読み上げる形式の授業があった。

 

ここで、コメントが読まれることが多くて、嬉しかった。

そのころは、本を読む習慣ができていた。

 

小学生の頃は、本を読まなかった。

大学生の頃は、本を読んだ。

 

これだけの違いかも知れない。

 

自分の中に、大層な何かがあるわけではない。

育った環境や見聞きしたものがあるだけだ。

その中から、何を想い、何を考えるか、何を取り、何を捨てるか。

ただそれだけだ。

 

私の中には、多くの知識や体験がある。

普段は忘れていて、必要な時に思い出せる。

(思い出せない時も多いけれど。)

 

自分は、重層的だ。

 

確固たる自分というものが存在するのだろうか。

カラダはそうかもしれない。

 

あなたの文章というものは、存在するのか。

自分で組み合わせた言葉の連なりを、自分の文章と呼んでいいか。

 

これは、私の文章です。

でも元々は、他人のものです。

 

自分の文章は、他人の文章であるが故に、

他人に読まれることができる。

 

あまりに独創的な文章は、きっと読むことができない。

 

ほどほどの独創性が、いい。

 

自分の中に、複数の他人がいて、それがいつしか自分の中に馴染んでいることがある。

読書で新しい考えを知る。その時点では、まだ他人だ。

そこからその他人と付き合っているうちに、他人とは思えなくなる。

馴染む。

そこで他人は、自分になる。

 

自分は、重曹的だ。

自分の中には、自分と他人のさまざまなグラデーションがある。

自分とは、いつも一緒にいる他人のことなのだろう。

 

自分とは他人のことである。

文章も然り。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2度寝が好きすぎて、どうしよう

 

2度寝をすると後悔することが多い。

 

しかし、2度寝はなんせ気持ちいい。

2度寝の瞬間は、何よりも好きかも知れない。

 

たまに2度寝のために、少し早くアラームをかける。

2度寝が前提のアラーム。

 

でも、最高なのは、起きなきゃいけないのに寝ること。

この瞬間が一番いい。

 

これから仕事なのに、寝る。

これが素晴らしい。

 

休みの日よりも、出勤日の方が2度寝の快感度は高い。

 

不思議だ。

 

3度の飯より睡眠が好きな私は、いくらでも寝られる。

寝付きもいい。

 

朝活を始めて、2度寝をしなくなった。21:00-4:25の睡眠

 

43日目に2度寝をしてしまった。

そこからは、ちょこちょこ2度寝をしてしまっている。

 

ダメなのはわかっている。

2度寝をしなかった日々は、2度寝しないことが誇りだったし、

肯定的だった。

 

しかし一度やってしまったら、緩んでしまった。

 

理性は2度寝を否定する。

感情は2度寝を全肯定する。

 

この間を取り持つのは至難。

 

理性を援護するのは、環境。

環境を構築せねば、感情に勝てない。

 

人間は弱い。

 

1アラームをベットから遠いところに設置する。

2アラーム解除には、計算を3問する必要がある。

3アラームの隣にコンタクトレンズを置いておく。

4隣に運動服を置いておく。

5運動服を持って階下へ。

6歯磨き

7水を1杯

8瞑想

 

この瞑想後に寝てしまう。

意思の弱さが尋常じゃないのかも知れない。

 

今日は2度寝しなかった。

ノンレム睡眠は、2時間と短かった。

いつもは3−4時間。

 

だから眠い。

 

人間だもの。

ちょっと弱いくらいでちょうどいいんだけど、

決めたことを守るくらいの誠実さは必要だ。

自分に誠実にならず、他人に誠実になれはしない。

 

そう諌めつつも、2度寝をしてしまう。

 

2度寝は最高。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

朝活連続記録が途絶えた。が、よき。

 

13時に目が覚めた。

 

冗談かと思ったけれど、現実らしい。

 

残念だとは思ったけど、切り替えた。

残り時間が短い中で、充実させようと。

 

何度も朝活に挫折してきました。

記録をつけるまでもなく撃沈していました。

 

今回は人生で初めて、朝活に成功しました。

連続記録は42日で終了しましたが、習慣にはなった。

 

完璧は、求めない。

完璧主義から抜け出すことも、私には必要だ。

 

いつもなら、連続記録が終わった瞬間にやる気を無くすのです。

 

今回は、完璧主義から70点主義に変わっているので、動じない。

連続はいつか崩れるのだから全然OK。

むしろ、よき。

 

習慣化は、マンネリ化でもある。

習慣化された瞬間、当たり前になる。

これはなかなか手強い。

 

朝活習慣の場合は、朝にやることを少しづつ変えたほうがいいかも。

新鮮さを取り入れて、充実感を味わう。

 

そのあたりが不足していたのが、今回の寝坊に繋がったような気もする。

寝る前に明日の朝の行動をイメージする。

すると起きやすくなるけれど、イメージがマンネリ化すると効果が半減するのかも。

 

明日の早起きは、今日から始まっている。

明日のルーティンを決める。少しかえる。

 

マンネリ化に気づかせてくれた今日の寝坊に感謝!

 

 

 

ランニング

 

意識高い系の人はこぞってランニングしている気がする。

それも早朝に。

 

そんな人の気が知れないと思っていました。

 

しかし、わかってきたかも知れないです。

 

5月から5 kmを13日連続で走りました。

そして故障しました。

 

私はもう若くない。

実感しました。

 

故障が明けて、6月に入りました。

スケジュールを変えました。

 

週3日5km。

週1日休み。

週3日1kmランか散歩。

 

毎日走るというのは、狂気だったようです。

ランニングは、膝に体重の5〜7倍の負荷がかかるそうです。

 

数ヶ月で長距離走って終わりではなく、

習慣化していくことに重点を置いています。

 

ランニングに期待できるのは、

 

ココロの安定。

ポジティブになりやすくなること。

幸福感を味わえる。

自信になる。

 

カラダの安定。

肉体が鍛えられると、ココロも鍛えられる。

自分のカラダに意識が向く。

瞑想的な感覚を得られる。

サウナの整った感覚に近い。

体力がつく。

 

アタマの安定。

スッキリする。

脳の成長になる。

 

ランニングで失うものは、時間。

故障したら治療費。

 

時間は、ランニングによって、ランニング外の時間の生産性が上がるので、

むしろ失っていないと捉えられるかも知れません。

 

故障は、知識をきちんと収集して、

カラダと対話していれば防げる。

 

ランニングは、意識高い系だけのものではない。

ランニングが、意識低い系を意識高い系に昇華させてしまう。

 

ランニングは装置である。

 

このほとんどタダの装置を利用しない手はない。

いいものは素直に取り入れるという柔軟性は、とても尊い

 

社会は加速度的に変化する。

我々のカラダはゆっくり変化する。

我々の意識は、加速度的に変化したほうがいい。

 

加速度的に変化するもの、ゆっくり変化するもの、変化しない方がいいもの。

そこの見極めが大事なんでしょう。

 

ランニングは、それを助ける土台になりうると思うので、

おすすめです。