think-positiveのブログ

ポシティブな面を見て生きる。

山形の空の黒さ。

 

普段は、東京のビルに囲まれて生活している。

 

かなり空が狭いし、空も明るい。

星は見えるけれども、たくさんは見えない。

 

山形県にきてみて、夜空の黒さに驚いた。

夜空ってこんなにも黒かったのか。

 

その夜空の黒さと対照的に、満月は大きく輝いていて、

東京と同じ月ではないみたいだった。

 

東京にいても月に感動することはあるけれども、

今回は空の黒さに感動した。

 

宇宙空間がそこにあるということが、体感として感じられた時間だった。

 

長く住めば、見慣れて、感動も薄れるのが常だけれど、

感動せずとも、身の回りに素晴らしい景色があることは、きっと

どこかでいい影響を及ぼすと思う。

 

都市のいいところ、地方のいいところ。

目まぐるしく変わる都市、自然とともにとてもゆっくり変わる地方。

 

それぞれが依存関係にあってこそ、存在できているのではないだろうか。

 

将来どこかに移住して、自然を感じながら生きていきたい。

 

 

 

シンデレラとスーパーの肉

 

シンデレラの元となったのは、

グリム童話の「灰かぶり」というお話。

 

グリム童話は、ドイツの民間のお話をグリム兄弟が編集したもの。

これを元にした、ディズニーアニメのシンデレラは結構な人が見ていると思う。

 

さて、私は大学生の時に童話に興味を持っていた時期があった。

その時に、グリム童話を手にした。

 

まず有名どころから読んだ。

シンデレラの原題が「灰かぶり」であることが意外だった。

灰かぶるシーンあったかなと。

たった17ページなので再読してみた。

 

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あらすじ

母が亡くなる。

遺言は、気立よく生きること。神さまを大事にすること。

 

父が再婚。

継母と子(姉と妹)とともに生活が始まる。

 

継母、姉、妹は気立が良くない。

外見は白いが、内面は黒い。

 

灰の中に豆をばら撒かれ、豆を回収させるといういじめ。

姉、妹は服を買ってもらえるが、自分は買ってもらえない。

家事を押し付けられる。

 

こんないじめの末、いつも汚い服で、灰をかぶっていることから、

近所で「灰かぶり」と呼ばれる。

 

ある日、王子の花嫁探しの催しが開かれる。

姉と妹は参加できるが、灰かぶりは参加を継母に拒否される。

食い下がる灰かぶり。

 

継母は、参加を諦めさせるために無理難題をふっかける。

灰の中に大皿いっぱいの豆をばら撒き、2時間以内に取り出せたら参加を認める。

 

灰かぶりは、近所の鳥や鳩に協力を得て、1時間で成し遂げる。

 

これを2回繰り返したのち、またも参加は拒否される。

 

実母の墓で、木に服と靴を落としてくれるようにお願いをする。

すると鳥たちが、どこからか素晴らしい服と靴を落としてくれた。

 

王子の会に参加して、王子に見染められる。

二人はダンスをずっと踊る。

灰かぶりは、素性がわからないように、逃げるように会を後にする。

この件は3回繰り返される。

 

その3回目に、王子は階段をベトベトにしておいて、

靴をおいて行かせることに成功。

 

後日、この靴を手がかりに灰かぶりを探す。

 

王子が灰かぶりの家に着くと、

 

まず姉が部屋で靴を履いてみるが、靴が小さい。

母は、花嫁になれば歩くことも必要ないから、

つま先をノコギリで切るように言う。

 

靴がピッタリということで馬に乗って城へ向かう最中、

鳥たちが歌って王子に教える。

靴から血が滴っていると。

灰かぶりとは別人だ。

 

妹は、かかとを切って、

同じく鳥によって別人判定。

 

王子がまだ女の子がいるはずだというと、

両親は否定。

王子が食い下がると、灰かぶりを目の前に連れてくる。

 

その場で靴を履くとピッタリ。

鳥の判定もOK。

 

めでたく結婚することになりました。

 

教会に向かう途中で、姉妹はおべっかを使い、灰かぶりから、

おこぼれをもらう卑しい心で左右に陣取っていた。

 

すると鳥たちが姉妹の片目をつつき、目をえぐり取りました。

 

式が終わり、教会を出ると、また鳥たちが姉妹のもう片方の目を

えぐり取りました。

 

そんなわけで、意地悪な姉妹は両目を失い、

盲目の人生を余儀なくされました。

 

おしまい

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気立よく、神様を大事にした灰かぶりは、

鳥や木などの助けがあって、王子と幸せな人生を送りました。

 

一方の意地悪な心の汚い姉妹は、

王子を騙そうと、足をノコギリで切断し、

両目を失うという、惨めな結果となりました。

 

この心の良し悪しによって、

信賞必罰的な結果を招来する系の物語は王道と思います。

 

しかしながら、特筆すべきはその罰の生々しさ、グロテスクさです。

それは、かなり淡々と語られるので違和感もありますが。

 

現代の感覚からすると、童話においては、

グロテスクなところを、隠さなければばらないと思ってしまう。

 

これは現代の日本に特異な傾向かもしれませんが、

あまりに生々しいものは避けるし、グロテスクなものは、

子供にとってあまりよくないと思われがちです。

 

しかし、本当にそうなのか。

今自分の持っている価値観は普遍的と言えるのか。

一時代の一地域に特有の価値観かもしれない。

 

なぜならば、グリム童話は編集されてから200年経っており、

お話自体はもっと古くから伝承されている。

つまりは、時代を超えて受け入れられてきたお話だということです。

 

200年受け入れられてきたという事実と現代日本の感覚と、

どちらが普遍的でしょうか。

 

 

前者が事実として普遍性があると思います。

 

時代が進むにつれ、進化するものと、進化しないものがあると思います。

科学や知識は進化するけれども、人はなかなか進化しにくいのではないか。

生物としての身体としての人、あるいは徳性のようなものも。

 

例えば、人間的な内面の充実など数値化できないので、さらに測りづらいけれど、

むしろ退化しているかもしれません。

 

ここで一つの問い。「グロテスクは隠すべきか。」

 

我々はグロいものから切り離されている。

そして生命とも。

 

我々は、生命を口にしている。

 

しかしながら、それは普段あまり意識されない。

それは、分業の賜物だ。

 

鶏肉業者は、鳥の皮を剥いで、肉をそぐ。

豚も、牛も。

 

我々一般消費者は、生命であった痕跡を綺麗に除かれ、パッケージされた、

一部分を目にする。

 

人間と構造が近しい動物は、解体ショーにはならない。

マグロの解体ショーはあるけれど。

 

現代人は、かなり生命から距離をおいている。

食べ物に対して、生命を頂くという祈りをするよりも、

生命の痕跡を消して、単なるモノとした方が都合がいいからか。

 

 

生命のモノ化は、経済的なスピード感をもたらす。

お金の流れをより高速にすることが、経済の肝であるから、

グロテスクを隠すことは、「経済的」にいい。

 

経済的にいいことは、人類にとっていいことに直結するか。

これはわからない。

 

経済的に富めば富むほど、幸福になるわけではないことは立証されている。

人類にとって、グロテスクを隠すことは、スーパーの肉は、

退化かもしれない。

 

灰かぶり的なグロテスクは、物語が伝承されるために必要な部分であったかもしれない。

そしてそのグロテスクの中にこそ、教訓が含まれているとしたら、、、、。

 

灰かぶりの締めくくりは、姉妹の目がくり抜かれて不幸になるシーンだ。

 

幸せになる道と同時に、不幸になる道も示されている。

グロテスクを消すことは、不幸の道への警戒が弱められる。

 

気立よく生きることは、周りの人とうまくやっていくために必要なことだ。

自分のためだけに生きようとすると、周りに迷惑がかかる。

よって罰がある。

 

普段から自分のことではなく、他人のことを考えて生きられる人は、

何らかの幸福がもたらされる。

普段から、他人から搾取するような人は、報いを受ける。

 

この物語の大きな特徴は、その罰が描かれるところである。

しかしながら、翻訳の段階でそれが削られることは、読み手にとっては不幸かもしれない。

 

過度な「安全」は決して安全をもたらさない。

グロテスクさは、多少の危険を犯す。

 

全員が同じ方向を向くのは危険だ。

一つのカゴで卵をいっぺんに運ぶことはリスクがある。

 

グロテスクさには、意味がある。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

あなたの操縦席に、あなたはいるか。

 

自己中は、大事だと思うようになった。

 

自己のためなら、他人に迷惑をかけてもいいということではない。

自己の内部で、自己を中心に据えるということ。

 

これは当然のようで、当然ではない。

 

私は、結構遠慮がちな人間で、自分の中心を他人に預けてきた。

これはいいことではない。

 

聞き分けの良さ、他人を尊重する精神、人とうまくやっていくことを

優先する精神。

 

これらは、自分を中心据えていながらに、持っていることが尊い

 

自分の中心に、自分がいない場合、

これは他者によく思われたいという願望の産物かもしれない。

 

人はまず自分を中心に生きる。

赤ん坊は泣くことで、自分を中心付けているかのようだ。

 

生きていくと、社会化の時期がきて、自分の中心が揺らぐ。

公共の福祉的なことだ。

他人に迷惑をかけない限りにおいて、自由を認められる。

 

「他人への迷惑」と、「自分の自由」とのバランスは、

人によって違う。

 

しかし、そのバランスを取ること以前に、

「自分の中心に、自分がいるか、他者がいるかの段階」があるように思う。

 

自分の中心に自分を据えた人は、自分の責任において、

自由を希求し、他者と共生できる。

 

あなたの操縦席には、誰がいるだろうか。

 

自分だろうか。

他人だろうか。

他人に印象付けたい自分だろうか。

 

私の操縦席には、永いこと他人がいた。

 

最近になって、自分を操縦席に乗せた。

 

気持ちが晴れた。

 

 

小説は、地図と似ていなくもない。

 

小説は、人気がない。

 

私も新書と比較して、それほど読まない。

 

それというのも、読み始めから読み終わりまで時間がかかる。

そして何時間かかるかも予測しづらい。

 

また、読んでみないことには、内容が予測できないので、

購入時に面白そうかどうかの判断がつきにくい。

あらすじを読むと、後々の楽しみが減じる気がしてしまう。

 

小説を読みなれない人に、小説を読むように仕向けることは困難だ。

 

小説の壁は厚く高い。

 

文章しかないことは、試練である。

もはやそれだけで滅入ってしまう人が大勢いる。

 

小説の存在意義も見出しづらい。

 

小説を読むことで、知識を得られるということはあるにせよ、

あまりない気もする。

新書や専門書のように体系的ではない。

 

「効率のいい小説の読み方」という本があったとしたら、

買わない。

 

ある意味、小説は非効率礼賛なのだろうと思う。

 

読者を楽しませる小説。

小説の形を借りた評論的な小説。

言葉の響き、センスのコピーライティング的小説。

人間の感情を表現する小説。

特異なストーリー展開の小説。

教養的な小説。

 

さまざまな小説がある。

小説は何かと聞かれたら、結構困る。

それほど自由な表現の場。

 

文字のない小説は、きっと小説ではない。

文字は必須で、内容は問わない。

 

現実世界に、さまざまな人がいるように、

芸能界にも、さまざまな人がいるように、

小説にも、さまざまな人がいる。

 

現実の縮図化がうまいと、それは立派なものになる。

 

地球の縮図化は地図で、立派に有用だ。

小説も、文字という形に縮小しながらも、現実がそこに再現されていれば

有用なのだろう。

 

人間の本来的な欲望に着火する小説は、名作になる。

 

我々は、他人を理解していない。

 

いちいちあまり深い事柄に触れないで生きている。

 

そうでもしなければ、生きづらい。

それでいい。

 

しかし、深いところを知った上で表面的に付き合うか、

表面的な人間理解で、表面的に付き合うか、

は大きな違いかもしれない。

 

小説はそこの一つの手段となり得るか。

 

 

アシタカは、なぜ表紙になれないのか。(もののけ姫)

 

もののけ姫」というタイトルなのに、

アシタカをメインに描いているのはなぜか。

 

逆にいうと、

アシタカの働きが一番大きいのに、

表紙でないのか。

 

いきなりアシタカは、祟り神に呪われる。

村の長になる予定だったし、心に決めたっぽい女の子もいたのに。

 

さらに、呪いの発端が、他の村の人間たちのせいであったことが発覚。

彼らは、アシタカが大切にしている価値観と相容れない。

 

アシタカは神を信じ、森とともに共生する価値観を持つ。

一方の村人(たたら場)は、神や森を征服しようという価値観。

 

アシタカはめげない。復讐しない。

 

①神、森・・・自然 もののけ姫(サン)・・・自然な人

②アシタカ・・・仲介、弁証法の人

③たたら場・・・文明

 

①と③という構図を発見する。

アシタカは①も③も肯定しているように見える。

そしてバランスを、共生できる道を必死に探し求める。(弁証法的統一を!)

 

アシタカは、かわいそうだ。

もののけ姫をたたら場から森に帰そうと出て行く時、誤って撃たれる。

鉄づくり手伝ったのに・・・。

 

呪いのおかげで、ランニングハイになっていたから森まで行けた。

森で神(シシガミ)に命を助けられた。

 

普通めげる。しかしアシタカはめげない。

その姿勢に私たちは励まされる。

知的かつ行動的かつイケメンとは、このことよ。

 

反省しない人間と大人げない神々。

 

たたら場的文明は、自分たちのために生きる。

自分の内部の共同体には優しい。

一方で外部には厳しい。

 

神々は、そこに怒り狂う。

 

自然を破壊する前に、反省すべきだが、それは人間の業だ。

自然が、人間に不都合なリアクションをとってくれるまで、反省しない。

 

今回は、ありがたくも、森の神々がリアクションしてくれたので、

たたら場も森もなんとか破壊し尽くされなかった。(アシタカさん!)

 

遅延で怒鳴るおじさん。謝るしかない駅員さん。仲介する人。

仲介する人は圧倒的に目立たない。

一番大人なのに。偉いのに。

「まぁまぁ収めましょうよ」と言っているのがアシタカである。

 

アシタカは元来、がっつり自然派の人間だけれども、

文明側の人間にも理解を示す。

これが知性のあるべき姿なのだろう。

 

相手の内側(たたら場)に入って、話を聞いている。

 

人間である以上、自然に対して無垢ではいられない。

自然を征服するのでもなく、自然を変えないように努めるのでもなく、

共生を目指す。

 

たたら場的文明人は、ついに神の首を獲った。

けれども神はデイダラボッチ(呪い?)という、

人間の手の届かない姿となってしまう。

 

自然を征服した。もしくは自分が神の領域に届いたと思った瞬間、

自然は上をいく。より高い次元を見せつける。

人間には計り知れないものが、そこにある。

 

首を神に返却して、延滞料金なしに事は治る。

 

アシタカはたたら場に移住することにした。

これは、セクシーな女が多くて楽しそうだからではない。

都会を謳歌しようというのでもない。

 

文明側の代表者となる決意だ。

文明と自然の橋渡しをする覚悟だ。

 

もののけ姫(サン)は森の代表者として、森に戻る。

そして彼らは、時折逢う約束をする。

 

人と自然の接点を持つこと。

互いに敬いながら、共生を図ること。

 

それをアシタカは一身に背負う覚悟をした。

 

そもそも祭りや祈りとは、おそらくこのようなものだ。

人と自然との接点だった。

 

これはさまざまな地域、民族にみられる。(文化人類学

 

ともすると、人は自然の外側にいると思ってしまう。

自然を操作するとか、支配しようとかしてしまう。

 

しかし、人は自然の一部だ。

 

自然をいたずらに変えようとすることは、

綱渡り中に、綱に火をつけるようなものだ。(あぶない)

 

アシタカはかわいそうだけれども、かわいそうではない。

 

アシタカ的な人間を目指したい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

TOEICの勉強(初学)

 

TOEICの勉強を始めた。

 

Youtubeでテキストの紹介を視聴して、3冊購入。

・金フレ

・1駅1題

・公式問題集

 

音声が無料でダウンロードできるのが便利。

 

10年前と比較して、勉強の環境は整っていてありがたい。

その分、ゲームなどの娯楽環境も整っているので、

自己の欲望との戦いに勝つことは容易ではない。

 

勉強の目的は3つある。

1、自由度の高い海外旅行をしたい。

2、海外ニュースをストレス少なく読みたい。

3、海外映画を字幕なしで観たい。

 

1が最も実現したい。

しかし少し遠い目標なので、2、3を当面意識する。

 

そのためにTOEICを活用していく。

 

勉強は、完璧を求めず、ハードルの低い量を行う。

単語は1日100単語を眺める。

文法は1日5題。

リスニングは1日1章。(1駅1題)

※過去問は点数を気にぜずやってみて、感触をつかむ。

 

目標は600点台を目指す。

10年前に受験した時は、550点くらいだった。

 

そこから全く英語の勉強をしていない。

故に忘れまくっている。

人間は忘れる動物なので、忘れていることに驚きはない。

伸び代があってありがたい。

 

8月22日に受験する。

こういう緊張感がいい。

点数化することが、わかりやすくてありがたい。

 

600点台はぜひとも欲しい。

そのために地道に毎日を疎かにしないようにしよう。

 

 

 

 

 

三島由紀夫VS東大全共闘 50年目の真実

 

本を読んで、意味がわからなかった。

「美と共同体と東大闘争」角川文庫

 

この内容が映像として残っていて、

ドキュメンタリー化した表題の作品。

 

三島由紀夫と東大全共闘の討論会。

 

Amazonプライムに加わり話題になっているようだ。

 

このドキュメンタリーは、解説も入っていてわかりやすくなっていた。

しかし、討論の内容に関しては、何を言っているのかわからない人が大多数だろう。

 

東大生と三島由紀夫

意見を異にしながら、三島は誠意を持って臨んでいた。

 

それだけでも見る価値があるようにも思う。

 

しかし、あの時代の言葉は、今の言葉とは違う。

ある程度、暗黙のうちに共有されている言葉というものがある。

時代々々で底流している言葉がある。

 

現代から見て、あの時代の言葉は、理解しにくい。

きっと、その言葉たちは常識であるから、

彼らもまたそれほどまでに深く突き詰めた言葉を使っているわけではない。

 

東大生の芥くんは、特にそんな印象だった。

空疎な言葉だと思った。

彼のうちから出ている言葉ではないと思った。

それもまた、あの時代特有のものだろう。

 

哲学的な言葉を、武器として使う。

そこに哲学は抜け落ちるけれども、それでいいという空疎さ。

しかし、それが彼らには必要だった。

 

そうしないと生きていけなかったのではないか。

 

言葉は、時代を超えているように見えて、

超えられない壁が存在していることを思わされた。

 

そういう意味で、ありがたいドキュメンタリーでした。