文学のわからなさ。いや、なんとなくわかってきたかも。
文学は誇張の芸術だと思っていた。
登場人物の心情を描写する言葉に、そんな心情を抱く人間いるのかなと思ったりする。
つまり、現実に存在しなくない?こんな人間って思っていた。
強いて芸術性のためとか、小説っぽくするために内面を捏造しているのではないかと。
ところで、
私はあまり言語化しない人生を送ってきた。
そのことに最近気づいた。
自分自身を言語化していなかった。
私はこういう人間です、といってもあまり意味がないと思っていた。
それは、私を判断するのは、他の人間であって、私ではないから。
つまり、他人が自分をどう見るかによって、私は無数に存在するということ。
私を優しいと思う人にとって、私は優しい。
私を真面目と思う人にとって、私は真面目。
私は他者の数だけ存在する。
そして時間とともに私像は更新され、変化する。
結局、
「他者から見た私」に意味があって、
「私の思う私」は外に対して意味をなさないように思えた。
しかし、その考えを更新しようと思う。
私は私を言語化するにつれ、自分で自分を理解することができてきた。
自分の感情を言語化するとき、実は結構幸せを感じるし、
小説っぽい言語化になることもあると気づいた。
自分の言語化は、小説の誇張を身近に引き寄せた。
小説は誇張ではなく、ただ感情の言語化だった。
自分を言語化すると、私はこういう人間です。と自分自身に言える。
するとその方向に進み行動したくなる。
自分で自分を理解し、言語化、記述することは、意味あることだった。
小説は人間の感情を肯定する。
私も私の感情を肯定しようと思う。
小説を通じて、知識だけではなく、感情を知り、
自分の感情を豊かにできたらいいですね。