think-positiveのブログ

ポシティブな面を見て生きる。

時間泥棒としてのインターネット

 

はてなインターネット文学賞「わたしとインターネット」

 

タダはやはり怖いものです。

 

グーグルの検索エンジンをタダで使えているのも、

グーグルマップがタダなのも、

とても助かっています。

 

知識が手に入るし、料理も覚える必要ない。

インターネット上で伝承されていく。

 

さまざまな生活の知恵や楽しい時間が溜まっていきながらも、

無限の空間がある。

 

一方で、時間を差し出している。

 

私は、インターネットから恩恵を受けている。

その代わりに時間を差し出している。

 

そのことに自覚的になったのは、最近。

ただ便利だなとしか考えていなかったし、

知らないことはすぐにインターネットで調べていた。

 

しかし、自覚的になった今、インターネットを抑制し始めた。

 

自分でスマホをいじっていても、なんとも思わないが、

他人が長時間スマホをいじっているのを見ると、

心配になることありませんか?

 

私はそうでした。

そこで、自分も心配するようにし始めて、

スマホ時間を極力16時以降にするよう努めています。

 

すると結構、自立した気持ちになり、自律もできるようになってくる。

知識量や情報に接する時間が減ったけれども、なんとなくよくなったなと思える。

 

これは堕落なのだろうか。

 

インターネットとの距離感は人によって、世代によって、かなり違う。

 

自分にとってのインターネットは、貴重な道具であり、時間泥棒でもある。

 

 

 

操縦席に座るのは、私。

 

自己との対話を軽んじすぎて、何にもなれなくなった人。

 

他人の意見を尊重するがゆえに、自己をすり減らし、

個性の厚みを失った人。

 

社会的に生きるとはなんのことか。

他人とうまくやっていくこと。

しかし、他人とうまくやっていくだけの自分をもっているだろうか。

 

足元をよく見る必要がある。

自分の過去を見つめることもいい。

今日いち日、何も感じなかったということはありえない。

 

今日、この一時間感じたことを言葉にすることで、

自己は再生する。

 

自己なき人生は、きっと貧しい。

 

自分の人生の操縦席に座ろう。

クラシック音楽

 

クラシック音楽を聴くようになった。

 

長いこと憧れとともに敬遠してきたクラシック。

 

わからないから敬遠してきたのだけれど、

わかる必要があるのかどうか。

とにかく聴いてみようと思い、聴くことにした。

 

まず、理解しようとしないこと。

ただ聴くこと。

 

これが案外難しいのだけれども、

10分瞑想を3ヶ月ほど毎日している効果なのか、

割と集中できた。

 

何かを表現しているとかそういうことなしに、

ただ聴こうとすると、不思議と馴染んだ。

 

聴いているうちに、知識も仕入れたくなってきて、

少し調べたり、本を読んだりした。

 

ベートーベンが分岐点であるらしい。

ベートーベンがひとつの完成形を「第九」で提示したみたいです。

 

クラシックは大きく3つに分かれるとのこと。

 

バロック(18C前半)

2ウィーン古典派(18C後半)

3ロマン派(19C)

 

1はバッハしか知らない。

2は3人だけだそうです。(ハイドンモーツァルト、ベートーベン)

3はなんかたくさん。

 

1は、宗教的とか貴族の会でのBGMとか教会で演奏するためのもので、

2は、1に作曲家の個性を少し入れてみて、

3は、個性で伸び伸び。

 

1は、楽器が現代と違うそうです。

 

結構アートと似たような変遷をたどっているのかなと思いました。

宗教画、写実的、印象派の移り変わりと似ているなと。

 

クラシックの全盛期は19Cで、ベートーベンの流れに乗って、

個性的な音楽がさまざまに花開いたという。

 

クラシックの全体感はこんな感じなのかなと思います。

 

これから、交響曲や協奏曲などのいろいろなパターンについて、

知識も深めながらクラシック音楽を楽しんでいこうと思います。

 

 

 

 

ラクーアのゴリラ

 

文京区のスパ・ラクーアに行ってきました。

 

前回は、サウナに全く興味がなかった。

今回は、サウナを習慣化してからの利用。

 

ラクーアにはゴリラがいました。

 

外気浴スペースが豊富で、いろんな箇所に椅子がありました。

そこで整っている人々がゴリラのようでした。

 

これは好ましい現象だと感じています。

 

私は、最近ゴリラの本を読み、感動してしまいました。

そこで、上野動物園に2日連続で行きました。

上野のゴリラと、ラクーアの人たちが重なって見えました。

 

今までも、電車に乗っている際に、

もしこの人たちがサルだったらと妄想することがありました。

サルがみんなスマホを覗き、耳にはAirPodsを装着して、服を着て、静かに立っている。

そのあまり幸せそうでない姿。

文明を謳歌しながらも、死んでいるように見えていました。

 

今回のラクーアは、ゴリラ的な時間をしみじみ味わう人たちがいました。

それは幸せそうな雰囲気に包まれていました。

高度なことは何ひとつなく、ただ自分の時間を過ごしているゴリラ人間。

 

かなり原始的な姿を、リラックスして、外気に晒していた。

まさにゴリラでした。

 

日々の仕事での疲れを癒すラクーアの時間は至福でした。

 

我々ヒトは、貨幣を発明し、しかも貨幣自体には価値がないことを知りながら、

貨幣を強く求める。

企業は、将来性が現在価値に組み込まれ、価値を増大させる。

実際よりも価値のあるものとして膨らんでいく。

 

そういった社会とバランスを取るかのように、

ラクーアのヒトはゴリラ化するのだろうか。

 

ゴリラ化することが幸せで、そのために仕事をする人もいるだろう。

そう考えると、最初からゴリラであれば幸せだろうか。

 

一生懸命働いて、東南アジアで家を買って、過ごす。

最初から現地人がやっている生活をする。

 

我々は一体なんのために働き、その結果何をしたいのか。

 

 

 

日本の無力感

 

バブル崩壊から30年。

 

日本は、もはや成長はしないだろう。

 

しかし、現状維持のために日本人は長時間労働をしている。

他国に類を見ないほどの長時間労働を持ってしても、

勤勉であっても、成長しない。

 

もっと長時間働くか、別のやり方を模索するか。

 

きっと皆、後者に希望があることは、うすうす気づいている。

しかしながら、従来の非生産的仕事で出世してきた層が中枢にいることで、

状況は変わらない。

 

変わることこそ求められているのだが、

変わらないことを切望している人たちがいる。

 

これはジェンダー論においても同型に思う。

優遇される男。冷遇される女。

女性の進出が社会全体に資すると理解しながらも、

変わらないことで恩恵を受けている男性の層が阻む構造。

 

変わることは、自然な現象だ。

人は、細胞も短期間に入れ替わる。

考え方も変わる。

街並みも。

今朝飲んだ水にも2度と会わないだろう。

 

変わらないことは、安心感がある。

でもそれじゃダメだってこともある。

 

日本は方向を変えるべきで、

そしたら、おじさんたちも変わるべきで、

私も変わるべきだ。

 

仕事に忙殺されず、きちんと自分で考えること。

時間の使い方を考える。

SNSYoutubeに時間を使って、自分は成長するのか。

成長とは、変化。

 

無駄に時間を使うことが習慣化すると、無駄な人になる確率は高い。

スマホネイティブ世代は、無批判にスマホに時間を吸い取られている。

親がそれを許す。

GAFAの経営陣は、子にスマホを与えない。

 

スマホのコンテンツはタダだ。

しかし、時間を、情報を吸い取られている。

 

私は、スマホの時間を制限することにした。

16時までは、ほとんど使わないことにした。

 

人生の充実感、幸福感が好転した。

スマホは管理するべきだ。

スマホに人生の貴重な時間を費やすべきではない。

 

日本の未来は、個々人の現在にかかっている。

まず、スマホは管理したほうがいいと感じている。

 

 

 

 

 

自分。液体として。

 

液体のように、形を変えていこう。

 

今日の私は、私の最終形態ではない。

今日の私は、明日は違う私になる。

 

液体のように、生きよう。

 

自然の法則に従って、進もう。

そこには、一切の抵抗を挟まない。

 

液体の温度になろう。

 

熱すぎず。

冷たすぎず。

 

液体の優しさを纏おう。

 

液体は柔らかい。

器にいつも応じる。

 

液体は進化する。

 

気体になる。

個体になる。

 

液体は、全部。

液体の人になる。

 

 

 

流行を追う中に、自分はあるか。

 

見える化、VUCA、自分ごと化などの流行りの言葉。

 

その言葉を無批判に使用することが嫌だ。

いや、あたかも自分の言葉であるかのように使う人のことが、

あまり信用できない。

 

確かに、世の中の変化に敏感に反応して、自分を変化させることは尊い

ただ、なんだか薄い気がするのである。

 

変化に飛びついて安心したいのかなと思ったりもする。

なかなか穿った見方かも知れません。

 

すぐに役に立つものは、すぐに役に立たなくなる。

流行りの言葉は、すぐに役立つ。

役に立ったその人は、すぐに役に立たなくなる。

 

しかし、それを永遠に続けたら、

その人は「すぐに役に立ち、すぐに役に立たなくなる」ことを休むことなく続ける。

その結果、役に立ち続ける人が完成する。

 

しかし、本当に役に立つのか。

 

物事は、普遍的なものと、特殊なものがある。

特殊なものよりも、普遍的なものを選択する方が、普遍的な人間になる可能性が高い。

 

人を騙して得をするのは、特殊。

人に親切にして、親切にしてもらうのは普遍的。

 

今流行っていることは、特殊か、普遍かという前段の判断がないのは、危険だ。

流行りに乗り続けることは、自分がないということを意味するような気がする。

 

流行を選択するという主体性がない人間は、きっと生存確率が低い気がする。

自分で考えない人は、自分で自分の人生を生きられない。

 

自分の人生を生きていない人は、魅力的にはなり得ない。

 

私は、流行りの言葉を否定しない。

 

流行りに対して、私は、どう思うか。

 

これを自問することで、主体性を復権する。

流行りに振り回されない生き方をする。

 

流行りを追うことは、火事の火を消すために、火の先端に水をかけているようなもの。

火の元に水をかけなければ消えない。

 

私は、火の元を見定めて、そこに水をかけたい。

いつもできなくてもいい。

その意識は持っていたい。